問題が問題ではなくなる方法①

こんにちは♪

 

ご訪問ありがとうございます。

 

久しぶりに福岡に台風が来ました。

昨日から暴風、記録的な大雨!

昨日は用事が有り外出しましたが、

100メートルほど歩いたら、着替えなければならない程、びっしょびしょになりました(><)

広い区域に避難勧告が出ています。

今日は自宅にこもる予定です。

お仕事の方、どうか身の安全を確保されてくださいね。

 

朝倉、大分の水害はちょうど昨年の今頃でした。

平成29年7月九州北部豪雨

これ以上の被害がでないことを心よりお祈りしております。。

 

自然の力は抗えませんね。

人間が小さな存在だと感じる瞬間です。

 

私達には解決したいのに

解決できない問題が多々あると感じられます。

 

でも、その問題、本当に問題なのでしょうか?

 

今回はその新しい方向性の話をしたいと思います。

 

 

そうそう、わたし九州福岡に住んでおります。

 

父親は鹿児島出身

母親は広島出身

 

そんな二人が福岡で出逢い結婚して

私と弟が生まれ、福岡で育ちました。

 

父は頭がいい人でした。

知的好奇心旺盛で勉強が好きな人で、

私と弟のためにブリタニカ百科事典全巻を書い与えてくれました。

勉強は人の可能性を広げる為にするのだと教えてくれました。(あんまり読まんかったけど笑)

 

【ブリタニカ百科事典とは】

ブリタニカ百科事典は、英語で書かれた百科事典である。110人のノーベル賞受賞者と5人のアメリカ合衆国大統領を含む4,000人以上の寄稿者と専任の編集者約100人によって書かれており、学術的に高い評価を受けている。 英語の百科事典としては最古のものであり、今もなお製作されている。 ウィキペディアより

 

父は司法書士事務所を経営していて

途中までは上手く行っていたのですが、

バブルが崩壊した時に立ち行かなくなり倒産してしまいました。

そこから収入が不安定になりました。

 

10年くらいは、今までの人の繋がりで仕事をもらい、なんとか稼いでいたようなのですが、

 

私が高校生になる頃、

もう全然見通しがつかない状況になっていて、

親戚にお金を借りたり、母がパートで仕事をして、

なんとか生活していくのがやっとという状況でした。

 

そんな時でも父親は昼間からお酒を飲み、タバコもやめず、

ニュースを見ては分析評論し、

仕事の電話だといっては大笑いして、

ろくに外にも出ず毎日を過ごしていました。

 

父には多額の借金がありました。

母は、父から二人で再起して頑張って返して行こう!

そう言われると思っていたようなのですが、

そういった言葉はなく、様々な理由があり両親は離婚することになりました。

 

その時私は17歳、弟は14歳。

父は養育費を1円も払いませんでした。

慰謝料もありませんでした。

 

母は医療事務を学び就職活動しました。

資格は取得出来ましたが、フルタイムの仕事は体がもたない可能性もあり、

結局は総合病院産婦人科の受付事務のパートの仕事をすることになりました。

 

母子手当を受けながら、家賃3万円代の古い家に親子三人で暮らしました。

私が19歳で就職するまで、その暮らしが続きました。

 

父からはたまに「元気か?」と連絡がありましたが、

なぜ今更父親面してくるのか、理解できず、憎らしく思っていました。

会いたくないし、会う必要もないと感じていました。

 

祖父33回忌、祖母7回忌の時に、また父から連絡が来ました。

祖先のこととお墓のことなどを話すというので、

これだけは聞く必要があると、姉弟で話を聞きに行くことにしました。

弟は忙しい中休みをとり、北海道から足を運んで、

なんと、母も心配してついて来てくれました。

 

父は私達を家族のように扱いました。

またお酒を飲んでいました。

 

社会人になり経験を積んだ弟は、

父の置かれた状況と、とりまく社会を理解していました。

 

その上でシンプルに尋ねました。

「なぜあなたは父親でありながら、私達に養育費一銭のお金も渡さなかったのですか?」

 

私達はただ謝って欲しかったのです。

 

しかし、父から返ってきた言葉は

 

「しょうがないじゃないか。」

 

でした。

 

父は全てを社会のせいにして、

自分を被害者として正当化し、

妻と子供を捨てたんだと感じました。

 

父自身は伯母の家に同居させてもらっていて

相変わらず、働かなくてもタバコもお酒もやめなくていい。

そんな生活をしていて、責務から逃げ回っているのだと思いました。

 

何よりも守らなければならなかったのは、

私達ではなく父自身だったのだと思いました。

 

なんだ。

この人自分が一番かわいいのね。

 

私は

悲しくて悲しくて悲しくて

話し合いの間中泣いていました。

 

父親として愛情があるのなら

謝罪か、支援か、心ある言葉が

もらえるかもしれないと期待していたのだと思います。

 

これが会うのが最後かもしれないと思って

行ったのにもらった言葉は

「しょうがないじゃないか。」

でした。

 

淡い期待は消え、涙が枯れる頃には

もう誰にも期待するもんか。

 

誰からも守ってもらわなくても、

この弱肉強食の社会の中で強く生きていくんだと決意していました。

 

つづく